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第11回 ことばなきものに声を与え、発話なきものにかたちを見出す:記憶の共有と継承をめぐる断片的考察 木内久美子

2021.10.13

北村匡平さま、山崎太郎さま

 この連載に文章を寄せられるのも今回を含めてあと二回ということで、書き残しが減らないままで終わってしまうような気がして、もう少しつづけたい気持ちもあります。お二人の文章を発端にたどられる記憶がさまざまにあり、次に何を書くかと考えるのが楽しみになりつつありました。自分のエッセーが読まれている=聴かれていると感じることで生じる書くことへの緊張感には、研究論文を書くのとはちがったおもしろさがあります。
 北村先生の文章を読んで、濱口監督について、作品のジャンルは初期のドキュメンタリーからフィクションに変わっても、「聞く」というテーマは一貫しているのだなと思いました。
 東日本大震災のあと、地震と津波の被害を受けた東北の沿岸部に直接に行くことも、何かをすることもなかなかできず、せめて少しでも現状を知りたいと、折に触れて震災にかかわる映画を観ています。グーグル検索で「震災」「映画」で調べると、多くの映画タイトルが出てきますが、そこにはない映画もイメージフォーラムやアップリンク・ファクトリー(渋谷は閉館してしまいましたが)、ポレポレ東中野、その他の小さな映画館で観ました。舩橋淳さんの「フタバから遠く離れて」二作品、小森はるかさんと瀬尾夏美さんの作品群、我妻和樹さんの「波伝谷に生きる人々」、また直接的に震災を扱っているといえるかはわかりませんが、双葉町からハワイに移住した日系ハワイ人に、現在の双葉町の盆踊りが継承されるという、土地というものの繋がりを考えさせてくれた中江裕司さんの「盆唄」などもありました。震災映画の上映には、山形ドキュメンタリー映画祭が震災直後から、「ともにある/Cinema With Us」という標語のもとに、率先してその場を提供し続けています。今まさにオンラインで映画祭が開催中ですね(https://www.yidff.jp/home.html)。なので、濱口さんというと、濱口さんの名を最初に知った、酒井耕さんと共同で監督された「東北記録映画三部作」が強く印象に残っています。
個人の記憶:声なき声にことばを与える
 「東北記録映画三部作」はすべてドキュメンタリー作品で、第一部「なみのおと」(2011)第二部「なみのこえ 気仙沼」(2013)、「なみのこえ 新地町」(2013)、第三部「うたうひと」(2013)の三部からなります。
 第一部と第二部では、被災者同士が向き合って座り、震災にかかわる記憶を語ります。気仙沼も新地町も地震と津波による甚大な被害があった土地ですが、これらの作品で瓦礫の風景が大きく取り上げられることはありません。三部作のブックレットに寄せた「制作をふりかえって」という短い文章で、濱口さんは、現地で風景にカメラを向けてみて、カメラは起こってしまったことをとるのには不向きだと感じたと書いています。むしろ「今確かにここで起きていること」「確かに誰かが語っているという事実」を、「できることならこれから起きようとしている予感をカメラに収めたいと思った」。ここには現在から未来を見つめるまなざしがあります。
 ある程度は偶然に生まれたという、向かい合って座る設定は、聴き手あっての語りであり、映画はこの関係性によってことばが引き出される過程をみせてくれます。耳を傾けられて初めてことばにしようとし、それによって何かがことばにされ、ことばにできて初めて気づけることがある。その気づきは語る本人のものでもあり、また聴き手のものにもなる。もちろん語り手には聴き手への配慮もあり、すべてを語るわけではありませんが、聴き手がいるからこそ、それまではおそらく声なき声として、自らのなかで循環していたなにものか、他者とは共有できない痛みや疼きのような感覚に語り手は少しだけ声を与えられ、それが自分から切り離されて、「誰かと一緒にいる場」に託される。映画館の観客はスクリーンを介して、そのような親密で緊張感のある場にいることを許され、想像力をフル回転させながら、その一人一人の様子に立ち会うことができるのです。
 作品そのものを観たのはもう6年ほどまえで、その記憶は曖昧ものになってしまっていますが、語る人々の生きる力強さを感じたことはよく覚えています。と同時に考えたのは、語れない人のことでした。第二部についてブックレットには、被災者の生きている負い目は死者に向かっており、その「「死者の声」が生き残った人々を封じてい」ることを現地で感じたと書かれています。トラウマを経験した人にとって、内なる声なき声に声を与えるということは容易ではありません。その出来事を受けとめられていない、触れたくない、想い出したくない――それは思考というよりも、身体的で感覚的な拒否反応のようなものです。また対話においては、ことばに社会性が要請されます。聴き手に配慮しながら、わかるように話さなければいけない。とはいえ、自分自身がまだ混乱しているのに、わからないことをどう話せばよいのでしょうか。こうして声を発しなくなり、ことばが見つけられなくなっていく人もいます。
 そんなときには話さなくていい。ただ誰かが側にいて、話を聞かせてくれることが、ことばを取り戻すきっかけになることもあります。岩手県の大槌町の海岸を見渡す丘にある、死者と話せるという「風の電話」。この場所を起点に構想された諏訪敦彦監督の映画作品『風の電話』(2020)の前半にはほとんどセリフがありません。この静けさ、特に主人公のハルの口数の少なさは、声を失いかけた人の沈黙だと感じられます。岩手県の大槌町で9歳のときに被災し、津波で家族をなくしたハルは、広島で伯母と二人暮らしをしています。高校三年生になり、伯母から大槌町を訪れてみてはどうかと促されます。ある夕方、学校から帰宅すると伯母が台所で倒れている。ハルは病院で容態の落ち着いた伯母に面会したあと、突発的に病院を飛び出し、ある山の中で倒れているところを見知らぬ男性に助けられます。
 大槌へのヒッチハイクの旅は、観客の知らぬ間に始まっています。その旅では、彼女を助けてくれる人たちが、それぞれに抱えている物語を少し分けてくれる。西日本豪雨で妹を亡くした家族、シングルマザーで高齢出産を決断した臨月の女性、福島の原発で働き、妻と子供を津波で奪われた男性、震災ボランティアで福島を訪れたクルド人難民の父親を2年間にわたり入国管理局に拘束されている彼の家族のたち。そしてハルにはこれほどにことばがないのに、人々はそれぞれの仕方で近づいてきて、ハルと一緒に食事をする。ともに食べることで、ハルのつぶやきのような「ありがとう」という声が、発話の困難な身体から懸命に絞り出されるのです。ハルにはことばよりも先に、他者の身体との接触があり、そこで一瞬ではあっても立ち上がってくる「誰かといる場」を感じるようになっていくかのようです。こうしてかろうじて感じとれるほどのゆるやかな変化で、ハルは少しずつことばを取り戻していきます。「風の電話」をハルが旅の目的地としていたわけではありませんが、偶然に行き着いたその場所で、彼女は受話器を耳に当て、未来の自分に思いをはせ、亡き家族に向かって話しかけることができるのです。
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 この映画はフィクションですが、風の電話は実在します。メディアでも度々とりあげられているので、あらためての説明は不要かもしれませんが、庭師の佐々木格さんが大槌町の自宅の庭に設置した、電話線につながれていない黒電話です。癌により三か月の余命を突然に宣告された佐々木さんの従兄は、厳しい闘病生活を送り、佐々木さんを含めた従兄の親族や知人たちと話せる状況にありませんでした。見送る側には十分に別れの時間を過ごせなかったという思いが残り、佐々木さんは故人といつでも「繋がれる」ようにと、2010年11月にこの電話の設置にとりかかりました。翌春に外装を完成させ屋外に設置しようと思っていた矢先に、東日本大震災が発生し、大槌町では人口の約10%にあたる1286人が亡くなりました(令和2年9月15日現在:大槌町公式サイトhttps://www.town.otsuchi.iwate.jp/gyosei/docs/434832.html)。佐々木さんはこの電話ボックスを完成させ、被災者を含めて一般に開放することにしました。
 突然に訪れた親しい人々との別れ――映画『風の電話』のDVDに収録されているインタヴューでは、佐々木さんはそのあまりの唐突さがもたらした残酷さに触れています。誰一人として望んで死んではいなかった。死者の残念な気持ちが残っている。残された遺族も同じことだ。その日、亡くなると分かっていれば、もう一言かけられたかもしれない。言い残したことがある。心残りだ。その思いを死者に「つなぐことができない」ならば、そこには絶望しかないではないか。亡くなっても、死者とはつながることはできる――そういう思いで風の電話を立ち上げた、と。
 
 風の電話をこれまでに訪れた人は三万人をこえるといいます。東北新幹線の新花巻駅から車で二時間、公共交通機関を使うと三時間という遠隔地、道しるべもなく迷いながら行き着く場所。そこにたどり着こうすること自体が、大きな行動です。とはいえ、かりにその場所にたどりついても、全員が電話ボックスに入れるわけではない。美しいイギリス庭園のベンチに座るだけの人もいるし、ボックスに入っても受話器をあげられず、その側に置かれたノートに、話せなかったと書いていく人もいる。受話器をあげても死者の声は聞こえてこなかったと、失望する人もいる。それでも多くの人々が、いつか死者とつながれるかもしれないという、かすかな希望につなぎとめられて、繰り返しこの場所をたずねるのだそうです。
 私たちは死者とつながることができるのでしょうか。私は(記憶力をもつ人であれば)、死者とのつながりをまったく感じない人はいないのではないかと思います。このことは、死という事実と死者とを分けて考えてみると、少し整理できる気がします。
 生物学的には、生あるものはいつか死にます。私たちにとって死は不可避で必然的なものです。自らの生はその死と背中合わせで、私たちはそのことを知識としては知っています。とはいえ、自らの死を生きているときの感覚をもって経験することは決してできず、自分以外の他者の死を目の当たりにして、死を想像するしかありません。そこには明かされようのない死の不可知があり、生者はつねにどこかで死の不安に襲われています。
 他方、死者はかつて生きていた人であり、生者の記憶に残っている人は、何らかの形で「知っている人」です。その人と過ごした時間、交わされた会話、そういったものが生者の記憶には残り、それが折に触れて想起されます。返事こそかえってきませんが、その人に語りかけ、どんな答えが返ってくるかと想像することはできます。残されたことばに憤りを感じることもあれば、励まされることもあるかもしれませんし、どこかで見ていてくれると感じられることで孤独感が和らぐこともあるかもしれません。
 とはいえ、このような死者観は死者の死の受け入れを前提としています。それができなければ、想起には大きな喪失感が伴い、その人の不在を確認することにしかならず、大きなストレスになります。とはいえ、不在をストレスと感じるほどに親密な人との記憶は、想起する人にとって大切なものであるはずです。人間は自らの記憶にある知識や経験に依拠して世界を理解します。忘れがたい記憶へのアクセスを封じることで、世界と接触するバランスそのものが崩れてしまう。ですから、死者が記憶のなかで生き続けることと、物理的にもう手が届かないという事実とに、なんとか折り合いをつけねばならないのです。
 実はこれは死者にかぎったことではなく、過去に出会ったけれどもこれから二度と会うことができない人々についてもいえます。付き合わなくなるにはそれなりの理由があるはずですが、それでも別れてしまってあとに初めて、日常的に接することができていたときには気づかれなかった過去の痕跡が鮮明に浮かび上がってくる。それを現在から断絶された過去だということを認められなければ、まるでその人が死んでしまったような喪失感が続きます。
 逆に死者を死者として、過去を過去として受け入れたとき、つまり一度断絶を受け入れたとき、私たちは死者や過去と関係を結びなおすことができます。その関係は、読書を通して出会うことばに少し似てきます。書物の世界、特に文学の世界では、存命の人とそうでない人、実在する人物とフィクションの人物を分けません。どの人もみな生きている「かのように」、虚構の世界を動き回ります。このような「見なし」の世界では、記憶やことばが私たちに触れるリアルがあり、死者と生者の世界をつないでくれる。感情を揺さぶるこうした他者の痕跡は、生者の記憶のなかで生き続け、生者はいつもどこかで「死者」に語りかけながら生きていることになるのです。
個から共同体へ:記憶をどう継承できるのか?
 「東北記録映画三部作」の最初の二作品が被災者個人の記憶を扱っているのにたいし、第三作「うたうひと」が、被災体験の伝承の問題に宮城県の民話の語り部をとおしてアプローチしたことは示唆的です。監督たちは映画を通して記録した記憶を「百年後の未来」に受け渡したいと考え、民話に未来に継承していくヒントを見出そうとしています。民話とは口承文学で、語り部によってその土地で長いあいだ言い伝えられてきた物語です。物語に神話的な定型を与え、独特の節をつけて語ることで、記憶に残りやすいように語られてきました。民話になるということ、それは個の記憶の域を超えて共同体の記憶となるということです。語る人と聞く人がいて、聞く人が語る人になる。その連関が有機的なものとして民話が存続することができ、その土地のアイデンティティのよりどころにもなりうるのです。
 最近まで東京都写真美術館で開催されていた山城知佳子さんの展覧会「リフレーミング」に、他者の声の継承という問題を真正面から扱った作品がありました。〈継承シリーズ〉の一作品である映像作品《あなたの声はわたしの喉を通った》です。
 7分ほどの作品はアーカイヴの映像を映し出す幕間をはさんで二部に分かれています。前半では女性(山城さん)が口を動かしている映像に、戦禍のサイパンでの記憶を語る年配の男性の声が重なります。口の動きは声と完全にシンクロしていますが、映像と声とが別々の人だということは明らかで、映像は声を観客に届けるためのイタコであるかのようです。一部の終わりで、男性の声が、自分の家族が崖から飛び降りて次々に死んだことを語るとき、彼女の頬から涙が流れ、口の動きが止まります。二部は一部と同じ設定で始まりますが、声の主である男性の映像が、女性の映像に重なってあらわれるようになります。その映像には男性の目や鼻から流れだす涙や鼻汁が鮮明に映し出され、触覚としての感情が伝わってきます。二部の終わりには男性の声と映像が消え、女性が自らの声で男性の証言を終えます。
 この作品は会場内での展示とは別に、映画スクリーンでも上映されており、私は両方観ました。そして会場内の展示を観たときに私が作品と取り結んだ関係のほうが、聞くことの困難、継承の困難を体現しているように感じました。
 会場では《アーサ女》というビデオ作品から激しい呼吸の音がたえまなく流れており、私は《あなたの声はわたしの喉を通った》の音をきくために、かなり映像に近寄らなければいけませんでした。それでも声は小さく、一度目に観たときはサイパンでの戦争の話をしているのは分かりましたが、途中までは映像ばかりに目が行っていました。それが女性の口の動きが止まり、涙が流れたとき我に返ったのです。この女性は聴き手だったのだ、私はその物語を聞き逃していた、と。とはいえ、二部でも声は小さく、女性に重なって現れる男性の表情に目が行って、物語が聞き取れず、最後で男性の声が完全に消えていることにも気づけませんでした。二度目にさらにスクリーンに近づき、今度は声に集中してみたところ、集団自決に話が及んで口の動きが止まったこと、また最後に自らに男性の声/ことばが聴き手の身体に取り込まれ、自らの声となって発せられたことを理解したのでした。こうした理解の困難は、映画を観たときには感じられず、すべてが明確でした。
 とはいえ、明確でない会場での展示を、私は続けて三回は観ました。そのおかげで、聞き取れない声を必死に聞き取るとするという、継承のステップにある最初の困難を経験することができたのです。その困難とは、戦争を経験していない私が、戦争経験者の証言を受け止めることです。そもそも私はご家族の集団自決に話が及んで、涙を流しませんでした。それがあまりに悲しく残酷なことであるかは頭では分かっていても、この「知っている」という感覚は男性の痛ましい証言を、沖縄でもあった、テニアンでもあったと、一つの証言の型として処理してしまったのです。女性の口の動きが止まり、涙が流れたとき、このことに一瞬のうちに気づかされてしまいました。
 展覧会のカタログに収録されている岡村恵子さんの「山城知佳子作品における風景・精神性・身体性」のなかで、この作品の制作過程が紹介されています。この証言がデイケアサービスの利用者からとられた証言の一つであること、あえて語り部でない人を選んだこと、利用者の記憶を活性化させるために昔の写真などを見ながら話す回想法を用いたこと。そして、山城さん自身がその証言を初めてきいたとき、「語られている言葉はわかっても、その内容を具体的な像として思い浮かべることができず、にもかかわらず男性につらい経験を暴力的に思い出させてしまったことの罪悪感に苛まれた」(92)というのです。それから一年後、語られた文字を書き起こし、男性の映像とシンクロするように声に出して読む自分の姿を繰り返し撮影したところ、10回程くりかえすうちに1回だけ涙が出た瞬間があったといいます。
 その瞬間について山城さんはこう述べています。「他者の痛みを感じたのではなく、自分の痛みとして仮想的に経験したのではないか」「話し終えると、その感覚はふっと消えてしまった。はかないものだった。自分の体験していないことを頭で理解しても、どんなに感情にふるえても、わかったとはいえない」「わかりえないものに対して、わかろうという努力を捨てないこと、(…)あきらめずに努力を繰り返すことで、戦争体験者や戦没者と共に生きるという感覚を培っていけると信じたい」。
 この作品は証言の継承に孕まれた他の問題も示してくれています。
 まず証言者が映像であるということです。敗戦から70年が経過し、証言を生の身体と声をもって語れる戦争経験者が減っているという現実があります。その危機感ゆえに、映像記録として証言のアーカイヴ化が進んでいますが、生の身体と映像とでは聴き手が語り手と結ぶ関係が異なります。水島久光さんはその著書『戦争をいかに語り継ぐか』(2020)で、今後の継承の課題は、証言が「記憶から記録へ」と変化せざるをえないなかで、証言の受け手が記録とどう関係を取り結んでいくのかだと述べています。戦争経験者が多かった時代には、戦争というコンテクストが経験的に共有されており、経験者と接触もでき、そのコンテクストを前提にした伝達コードが共有され、それゆえメッセージも伝えられた。それが経験者のいない時代には、コンテクストの経験的共有がないため、コードもメッセージも不明確になっていく。このような状況ではかつては通じたかもしれない「だから戦争はいけない」は、もはや同じインパクトを持てない。山城さんが「わかりえないもの」と形容し、映像というヴァーチャルなメディアから、自らの生身の声へと折り返したことは、継承の一つの興味深い試みです。
 次に「個の記憶」と「集団の記憶」の問題があります。すでに書きましたが、個の記憶が継承されるということは、必然的にそれが集団の記憶となっていくことを含意しています。《あなたの声は…》の一部と二部のあいだに挿入されているアーカイヴの映像は、証言がすでにアーカイヴに集団記憶の一つとして保存されていることを含意しています。その映像の背景でも、男性の声がさらに絞られた音量で話しています。戦後補償の問題に触れているように聞こえた部分がありました。断片的にしか聞こえず、内容をつかみきれなかったのですが、少なくともこの作品には戦後補償という社会問題にフォーカスした編集もありえたということです。とはいえ、山城さんはそうしませんでした。
 ここには記憶の継承にかかわる第三の困難がかかわっているように思えます。「カノン」と「アーカイヴ」の問題です。『想起の空間』におけるアライダ・アスマンの定義によれば、前者は、もともとはユダヤ教の《正典》の指す語で、共同体のアイデンティティを規定するために参照される書物を指します。そこから派生して、ある特定の共同体が、そのアイデンティティや政治的・歴史的見解を補強するために、能動的に参照する文化的・歴史的な過去の記憶や記録のことを指します。コンテクストが異なる過去の記憶は、現在のアイデンティティにシームレスに連続しているとはかぎりませんが、「カノン」は現在であるかのように取り込まれる、「過去‐現在」です。記憶‐記録が能動的に選別されるということは、共同体によって意図的に抑圧される弱者や少数派の声があるということです。また語り部が繰り返し語ることで、自然とカノンをなぞるようになり、証言がカノンに近づいていくという事態も生じうると、水島さんは指摘しています。
 他方「アーカイヴ」とは、そのような選別を介さない、可能性としては無数の声の集合体です。ただしそこから脱落しているものもあります。受動的に忘却された声(記録や収集が不可能だった記憶)です。「アーカイヴ」は様々な解釈や時代に開かれており、公開されアクセスされているかぎりにおいて、歴史にたいする多角的な見方を可能にしてくれるものです。アスマンはフーコーによるアーカイヴの議論を敷衍しながら、アーカイヴとは、未来においてこの現在について叙述できることの基礎になるものだと定義しています。
 映像技術が身近になり、アーカイヴ証言も多く集まる時代になっています。水島さんによれば、ここ20年のドキュメンタリーでは証言の多様化が進み、そして加害者の証言も少しずつ出てきています。とはいえ、それと同時に証言がもはや語る人の姿と結びつけられず、ある物語を裏付けるための断片的なデータとして用いられる傾向も出てきているといいます。「アーカイヴ」がたんなるデータになり、戦争体験を語る物語から肉体や痛みが削ぎ落され、痛みそのものが定型へと落とし込まれてしまう手前で、私たちは証言者の他者性や過去の他者性に、どう踏みとどまり続けながら、証言を継承しつづけられるでしょうか。
 「発話なきものにかたちを見出すこと」――それが作家の課題だと、ベケットは友人の画家アヴィグドール・アリカに語ったことがありました。山城さんの《創造の発端‐アブダクション/子供》でダンサーの川口隆夫さんの泥まみれの肉体が水中の鍾乳洞を浮遊する姿に、私はこのベケットのことばを想起させられました。この存在は、おそらく発話以前のアーカイヴも残らないような存在だろうと。足元に展示された16のモニターは確かにその存在を視覚化はしていますが、しゃがみこんでモニターを見つめてみても、モニターによって断片化されたその存在がどこで何をしているのかを捉えるまえに、モニターを観ていられなくなり、その理解不可能性そのものを受け止めるしかないように感じました。
 そのときふと、またベケットが現れました。《womb-tomb》という表現です。子宮は長い時間をかけて胎児を育んでいくものですが、それは同時に胎児の墓場にもなりうる場所です。一般に胎児について語られるとき、胎児はいつから何を感じられるかということが話題になりますが、感覚器官がつくられる胎芽にはそれすらなく、母体をただ浮遊しているだけのはずです。それなのに、胎芽は強いつわりで母体にその他者性を痛烈に突きつけることがあります。母体はその他者性を吐き気とともに突きつけられながら、なんとしても離すまいと全身で抱きとめる。その身体的な経験は超音波で視覚化された胎芽の映像とは、別の世界のことのようです。
 この作品で浮遊する川口さんには手も足もあるのですが、私にはその体全体が感覚の始まりを探す食指に思えました。それはいくら可視化しても不可知な領域であり、確実に存在してはいても、アーカイヴ化の網目をすりぬけてしまうようなものです。その生命の始まりの危うさと弱さに、私たちの誰もが立っていたということ。そして、母体はつわりや喪失の不安、あるいは実際の喪失の痛みと共に、誕生と死とが常に背中合わせであることをいつでも体内に抱えてきたということ。写真作品《黙認のからだ》が対比させる乳房のような鍾乳石と人体のイメージに、私は、流れ続ける水のなかで、生命が生と死とを断絶と連続を孕みながら繰り返してきたその長い継承の進化‐神話を読みとりました。それは発話を介さないものに形を与え、継承するためのひとつの形‐表現なのかもしれません。もちろんこの神話も「カノン」と紙一重だということを肝に銘じながら、ここで一度筆をおくことにします。
参考文献
「東北記録映画三部作」ブックレット、一般社団法人サイレントヴォイス、2013年.
諏訪敦彦監督「風の電話」DVD、ブロードメディア、2020年.
矢永由里子・佐々木格編集『「風の電話」とグリーフケア:こころに寄り添うケアについて』風間書房、2018年.
山城知佳子展覧会カタログ『山城知佳子 リフレーミング』水声社、2021年.
水島久光『戦争をいかに語り継ぐか:「映像」と「証言」から考える戦後史』NHK出版、2020年.
アライダ・アスマン『想起の空間:文化的記憶の形態と変遷』安川晴基訳、水声社、2007年.